2008年7月21日
桃源郷とはよく言ったものです。
たくさんの桃が、たわわに成っている様をまじかに見ることは、
実ににワクワク幸せな気持ちのするものです。
毎年この気分が味わいたくて、7月~8月上旬までに一度は訪れる山梨県の「桃の里一宮」。
今年は中央高速から、もう少し奥の春日居を訪ねました。
どこの道端でも、走る車の窓からでも、なにげに手を伸ばせば、
1ミリ程の透明な産毛の、ずっしりと重い、ピンク色の桃にさわることもできます。
目の前に広がる桃畑、ほんとに幸せだー!!
近くの農家の庭先に行って、みごとな桃を手に入れる事も難しい事ではありません。
今年はJAの販売所で、はねだし桃の入荷に遭遇しました。(当たって傷がついたり、規格よりも小粒だったりして、JAの規格からちょっと落ちるけど、春日居で育った桃ですもの何といっても、名品です。味は最高!!)僅かな入荷の中から1ケース、お安く手に入れられて、別の意味でも満足。満足。
すごく甘くて、ほんの少しすっぱくて、桃のいい香り。
皮を手で剥いでいる先から、透明なジュースがしたたり落ちる。
4月頃でしょうか、中央高速道路一宮あたりを通過すると、空一面が桃色で染まります。
その濃いピンク色の空をみて、きれいというより「あー桃が成る・・・」とワクワクします。
あんなにたくさんの花から実が成るのかと思いきや、ほとんどの花は不要なのだそう。
蕾のうちに、数回間引いて、
結局は枝についた花のほとんどを間引いてしまうそうです。
一枝に数個の蕾を残して、今度はその成長途中の小さな実、一つ、一つ全部に、袋をかける。
安全安心のためにも、全部に紙袋をかぶせて育てる。
選りすぐりの実を作るのです。
害虫や病気から実を守り、きれいなピンク色の完全な丸い桃に育てるのですから、大変な手間がかかるのですね。
私は食べる人。
来年もこの美味しい桃が食べられますように・・・
天に向かってお祈りします。
2008年7月9日
何年か振りで誘ってくださった友達のご主人はペルーの方である。
「主人がペルーに帰っていて、向こうの食材をたくさん持ち帰ったので、ぜひご馳走したいと主人が言っている」という友達のありがたーい申し出を受けて、喜んで飛んでいった。
40歳台に突入した切れ者の彼女も、たんたんと変わらず仕事を続けているという。
当時の職場でも、並はずれてクールで、ちょっと近寄りがたい感じの彼女は、3ヶ国語をこなし、会社でも、一目置かれる存在であった。私と仕事での接点はあまりなく、特に親しくしていた訳ではないが、お昼時は、開いてる席で持参したお弁当を一緒に食べ、食べ物の話ばかりしていたような記憶がある。
実は人懐っこい、やさしい人柄であると気づいたのは、私が会社を辞めてからである。
その会社を辞めてから10年ほどになるが、この間何度が訪ねて来てくれたり、会がある度誘ってくださる、その姿勢がずっーと変わらないからだ。
今回の料理だって、ペルーのほんとの食材が今ならあるからと、ペルーへの愛国心もさることながら、腕をふるってご馳走してみたいとご主人が思っている事を、彼女が実現してくれたのだ。
台所で料理しているご主人の周りを彼女はうろうろしているだけである。
しかし、かわす会話はスペイン語6割、日本語4割といった感じである。
ペルーは日本人にもおなじみのジャガイモ、トマト、とうもろこしなど野菜の原産国である。私はあまりにも有名な高山都市マチュピチュのせいで、ペルーに海があることを忘れていた。ご主人は海のほうの出身だそうである。
ペルー料理として定番という“セビーチェ”は、生の魚まぐろやたい、いかやタコをレモン汁に漬け込む。そのレモン汁には大根おろし、セロリ汁、しょうが汁、とうがらし、紫たまねぎのスライスなどが複雑に混ぜこんである。
実にさわやか。
種類豊富な丸く赤いピーマン型の「ロコト」や細長の「アヒアマリージョ」「アル・ナウ・チョ」等と、とうがらしそれぞれに名前が違う。それぞれ味やからみが違うので、とうがらしで味付けを変えるらしい。
つけ汁であるレモン汁が美味しい。私は何度もスプーンで汁をすくい飲んだ。辛くて酸っぱい。ご主人は、この汁をご飯にかけて食べるそうである。分るような気がする。
もう一品の定番料理“パパ・ア・ラ・ワンカイーナ”じゃが芋の料理である。上にかけてあるきれいなうすオレンジ色のソースはマヨネーズではない。クラッカーの粉砕にカッテージチーズ、牛乳、にんにく、とうがらし、など。
日本人の口にとても合う。きっと現地ではもっと辛いに違いない。
やさしい辛さにしてくださって、気遣い一杯なのだ。
アルコールの飲めない私にもマンゴのスィートなカクテル、思わずもう一杯と言いたくなる。
ペルーの国土は日本の3倍の広さ、人口は6分の1という。
かつてのインカ文明の中心地であった大地で、くせのない良質なコーヒーも採れる。
おみやげに可愛い“りゃま”の絵のついた高級コーヒーをいただいた。
明日はこのペルーコーヒーをお友達にご馳走しよう。
2008年7月1日
明治43年7月生まれである。今日で98歳。
自力で歩く事は出来ないが、美味しい不味いや、テレビのお相撲や好きなことは理解できる。
会った時は必ず、これ程嬉しい事はないと云わんばかりの、いい笑顔を見せてくれる。
毎日世話をしてくれているヘルパーさんの姿を、純粋な目でずーっと追っている。
まさしく赤ちゃんのように、可愛らしくなってしまった。
この笑顔をみていると、つくづくずるいと思う。
若い時は頭が非常にシャープで、伴侶であった叔父と共に、「分るという事ははどういう事か」と哲学にも近いような事に悩み、それなりの宗教観を持ち、常に勉強、勉強と、口うるさくいうような人であった。
私にとってはとても怖い人であった。
独特の人生観を持っていたので、甘い事を言っている人には、相当な毒をまいていた。
それゆえ、訪ねてくる人達は、それなりの緊張感がいつもあったようだ。
この可愛い顔にたどりつくまでの間、
どれだけの人達とバトルしたか、数え切れない。
90歳を過ぎて、ヘルパーさんに面倒をみてもらわなくては一人で生きていけなくても、
そのヘルパーさんと激しい喧嘩をする。
自分とヘルパーさんとたった二人しかいない家で、「今すぐ出て行きなさい!」と言ってしまう。
その気持ちは分らなくもない。
自分の体が自由にならなくて、頭の中が何だか分らない事だらけで、イライラしている。
面倒をみてもらっているとはいえ、自分の考えに合わない人に面倒を見てもらうのは嫌だ。
そういう気持ちが激しい感情になり、抑えられないのである。
激しい人生である。
子供のいない叔母は、私達と一緒に住もうかという話を、何度したかしれない。
その度に自分で考えて、考えて、考えて、「いやもう少し自分でできるから」と、自分で言っておきながら断ってくる。
結局は、私とも必ずバトルになるに違いないと、叔母は恐れていたのかもしれない。
ニコニコしているので、「ずるいねー。おばちゃまは・・」と言うと、私の顔をみて、またニコニコ。
平和な日々である。